今回の記事は、以前書いた記事の続きです。
ぜひ先にこちらの記事をご覧ください。
寺社仏閣が好きな若い人に知って欲しい!お寺と神社が区別された歴史について。〜「神仏判然」編〜今回は、明治政府が打ち出した神仏分離政策によって起きた悲劇について書いていきます。
江戸時代までの寺院の機能
江戸時代に定められた「寺請制度」をご存知でしょうか。
これによって江戸幕府は、全ての人間が地域のお寺の檀家になることを義務付けました。
幕府が禁止してたキリスト教など信者でないことを証明させる意味もあります。
それが良いことだったか悪いことだったのかは置くとして、寺請制度によって寺院は地方行政の末端の機能を持つようになりました。
今でいう役所の住民課みたいな感じですね。
寺院は地域に深く根付き、社会的な地位も安定したものとなっていました。
破壊された寺院
神仏判然令の影響は、社僧の還俗に止まりませんでした。
過激な神道家の中には、寺院に対して破壊的な行動をとるものも出てきました。
彼らは神仏判然令を大義名分に仏像・仏具を打ちこわし、焼き払っていきました。
寺院そのものが没収され、廃寺になったケースもあったようです。
このような動きは期間にすると1年間ほどのことでしたが、全国各地へと広がっていました。
神仏判然令を受けて、寺院に対して行われたこれらの攻撃を廃仏毀釈といいます。
興福寺の悲劇
神仏分離、廃仏毀釈の影響をもっとも受けた寺院のひとつが奈良の興福寺です。
7世紀の創建当初から奈良の都を代表する国家的な寺院として、栄華を極めた寺院です。
その興福寺に何が起きたのか。
どこからが興福寺?
興福寺を訪れると、他のお寺と比べてものすごく違和感があります。
近鉄奈良駅から降りて地図を見ながら歩いていると、いつの間にか金堂や五重塔までたどり着いてしまいます。
興福寺には、門も塀も全くありません。
どこからが興福寺の敷地なのかさっぱりわからないのです!
これも、廃仏毀釈の影響です。
明治に入って奈良県に任官した初代県令(のちの県知事)の四条隆平は熱心に神道の国教化に務めました。
彼は興福寺の塀を「無用の長物」とし、全て撤去させてしまったのです。
五重塔が売却?
興福寺は多くの塔頭寺院を持っていましたが全て廃止されました。
本山の寺院の敷地の広大な境内の中に作られるものもあれば、離れた場所に作られるものもあります。
興福寺の塔頭でもっとも大きかった一乗院には奈良県庁が置かれました。
また、興福寺の食堂は取り壊され、代わりに洋風建築の師範学校が建てられました。
興福寺の境内は官庁街へと姿を変えていき、残りの敷地は奈良公園へと変わっていきました。
これらの動きの中で、五重塔が売却されることになりました。
その額、なんと250円!w
いや、もちろん当時の貨幣価値ですから、まあまあ高いですよw
明治3年に発行された20円硬貨は金貨でしたし、当時の1円は現在の2万円相当だったという説もあります。
しかし、それ以上に解体の費用がかさむことが分かったので、金具だけ再利用し残りを焼き払うことに。
その際、近隣の住民が延焼の危険を恐れて反対したため、焼却処分という最悪のケースを回避できました。
現在残っている五重塔には苦難のドラマがあったんですね。
なぜ興福寺が徹底的に追い込まれたのか。
興福寺は、隣接する春日大社と密接な関係にありました。
春日大社は摂関家である藤原氏の氏神であり、興福寺も同じく藤原氏の氏寺でした。
明治に入ってから、藤原氏は摂関家として天皇を補佐する重要な地位にあったため、新政府の政策には積極的に協力し、規範とならなければならなかったのです。
今回はここまで。
正直、廃仏毀釈と興福寺の話はすぐには語りつくせませんね。
密接な関係にある春日大社のことや、興福寺の保有して来た貴重な仏像がどのような歴史を辿って来たのかも、今後触れていきたいと思います。
[…] 明治初期に、廃仏毀釈の波を受けて、取り壊されてしまったからです。 […]