どうも、梅田(@crfmuc0nd)でございます!
ちょっと間が空きましたが日本の宗教シリーズです。
前回は、古くから神と仏が混然一体となって同一視されてきたことについて触れましたね。
お寺や神社が好きな若い人に知ってほしい!神仏習合をわかりやすく解説!その1今回は日本における神仏習合の、ある意味で集大成とも言える「本地垂迹説」について説明しようと思います。
今日もできる限りの力で簡単に書きます!
本地垂迹って?
ちょっと文字からは意味も想像できないような言葉ですね。
宗教を自分で勉強しないと一生出会わないような言葉です。
とはいえ、あくまでも神仏習合の範囲の中の言葉ですから、神と仏が同一視されていることを意味する言葉です。
この言葉は「本地」と「垂迹」に別れる言葉です。
それぞれの言葉の意味の由来まで言い出すとこの記事が難解になるので避けます。w
ここはひとまず、本地を「本来の姿」、垂迹を「仮の姿」という意味で覚えましょう。これで十分です。
そして大事なこととして、本地は仏を、垂迹は神を指す言葉であることも覚えておきましょう。
ですから全体の意味としては、
仏や菩薩が、衆生救済のために仮に神の姿をとって現れること
といったところでしょうか。
同一視される神仏が特定される
本地垂迹説が本格的に定着するのは10〜11世紀のことです。
そのころになると、なんとな〜く神と仏を同一視するのではなく、「〇〇神の本地仏は〇〇」という感じで、特定の両者をセットで同一視するようになります。
例えば天照大神の本地仏は観音菩薩だったり、八幡神の本地仏は阿弥陀如来だったり。
神に特定の本地仏を選ぶ際の根拠は、その神社の神宮寺の本尊を当てたり、性格の似た仏が選ばれたりと様々でした。
信仰者次第で本地仏が複数になることもありました。
天照大神の場合、密教が伝わってくると大日如来を本地仏とする信仰がかなり広がっていきます。
視覚的にわかりやすく!
本地垂迹説が一般民衆に普及していく中で役に立ったのが、神と仏の関係を目で見てわかりやすく表した御正体(みしょうたい)です。
御正体とは、御神体である鏡の中に本地仏を彫り込んだもの。
有名なものでいうと、春日大社の春日神鹿御正体でしょうか。
春日大社は5つの宮と祭神を持っているため、5つの円があり、それぞれの本地仏が表されています。
こういった、目で見て直感的に理解できる工夫によって本地垂迹の思想は日本人に深く根付いていったわけです。
今回はここまで。
春日大社についてはこってりと書きたいことが山ほどあるので、また別の記事で書かせていただきます。
ひとまず神仏習合そのものの簡単な解説はこのくらいで置いとこおうかと思ってます。
次回からは具体的な寺社仏閣やお祭りを取り上げて、神仏習合の名残なんかを追っていけたらいいですね〜。
また、神仏習合の中にしれっと混ざり込んでいる儒教や道教なんかもおいおい取り上げていこうと思ってます!
自分で掘り進めたい方にはこちらがオススメです。
非常に読みやすくまとめられているので、これから勉強するのにも良いですよ!