日本における「鍾馗信仰」に見る、日本人の「習合」という宗教感覚。

今回は張り切って宗教ネタです!

みなさん、「鍾馗(しょうき)」という神様をご存知でしょうか?

鍾馗は中国の道教に由来する、日本にとっては外来の神様です。

中国の古い伝説では、鍾馗がこんな風に登場します。

唐時代、病に侵され床に伏していた玄宗皇帝が夢をみます。

夢の中でたくさんの小鬼が出てきて悪事を働こうとしますが、どこからか大鬼が現れて小鬼たちを捕らえて食べてしまいました。

皇帝が鬼に正体を尋ねると、鬼は自らを「鍾馗」と名乗りました。

皇帝が夢から覚めると、病はすっかり治っていました。

ざっくりですが、こんなかんじ。

この伝承が中国では民間にも広がり、鍾馗は魔除けの神様として親しまれています。

日本においても端午の節句で人形を飾ったりしますよね。

鍾馗が日本にきたのはいつ?

実は、鍾馗が日本に伝わった明確なタイミングはよくわからないみたいです。

確認できる最古の鍾馗図は平安時代末期の辟邪絵(へきじゃえ)です。

MEMO
辟邪絵は国宝にしてされており、奈良国立博物館に収蔵されています。データベースで見ることができますので、興味のある方はこちらをどうぞ。

室町時代以降は、画題として多くの絵師に好まれたようです。

京都における鍾馗。

京都の町家の屋根を見上げると、鍾馗像が飾ってあるのを見ることができます。

鍾馗

注意して見れば、京都市内のあちこちで見つけることができるのですが、現在も京都で製作している業者は1軒しかないそうです。(京瓦.com)

なぜ鍾馗が広まったのか?

そちらのサイトに、京都で鍾馗が広まった謂れが紹介されています。

昔、京都の三条に薬屋が新しく店を構えて大きくて立派な鬼瓦を葺きました。 するとお向かいの奥さんが原因不明の病に倒れてしまいます。病を治そうと原因を探ると、薬屋の立派な鬼瓦により跳ね返った悪いものが向いの家に入ってしまうからだということがわかりました。
そこで鬼より強い鍾馗(しょうき)さんを伏見の瓦屋に作らせ、魔除け・厄除けに据えたところ病が完治したというのです。

それ以降、京都では鬼瓦の対面に鍾馗さんを据えるようになったようです。

この鍾馗像には、真正面を向いたものと少しそっぽを向いたものがあります。

京都 鍾馗

これは、撃退した邪気がお向かいの家に移ってしまうのを避けるためです。

そもそもなぜ「鍾馗」だったのか?

なぜ京都で「鍾馗」が広まったのでしょう?

京都と鍾馗の組み合わせには、必然性があると僕は考えています。

それは、八坂神社に祀られる素戔嗚尊(スサノオノミコト)との習合です。

スサノオは、ヤマタノオロチ退治の神話でもおなじみですが、武神という性格から「荒ぶる神」という一面も持っています。

荒ぶる神は古来より、疫病や災害を司り、正しく祀らなければ祟りを及ぼすと考えられてきました。

反対に、正しく祀っておけば、災厄から人間を守ってくれると信じられています。

京都の祇園祭を夏に行うのは疫病や自然災害が発生しやすい気候だからです。

鍾馗が魔除けの力を持つと信じられていたならば、性質の近いスサノオと同一視されても不思議はありません。

祇園祭によって、京都中にスサノオの信仰が広がったのならば、それに伴って鍾馗の信仰が広がったと考えられます。

石見神楽に見る鍾馗とスサノオの習合。

京都における鍾馗とスサノオの習合をはっきり説明してくれている文献になかなか出会えません。

だから、ここまで説明したことは実は憶測の域を出てません。

でも、完全にとんちんかんなことを言ってるつもりはなく、かなり確信に近いものがあります。

その根拠は、島根県西部の石見地方に伝わる石見神楽にあります。

石見神楽は記紀神話や日本の古い説話を題材にした演目が多数あり、その中に「鍾馗」の演目もあるんです。

その中での鍾馗の設定は、

スサノオノミコトが中国に渡り、「鍾馗大神」を名乗るというもの!

もう思いっきりスサノオノミコトを出しちゃってます。w

あらすじをざっくり説明すると、

唐の国に渡ったスサノオノミコトは鍾馗大神と名乗るようになる。

玄宗皇帝を鬼(疫神)が苦しめていたので、戦ってこれを退ける。

という感じです。

やはり鍾馗とスサノオは互いに無関係ではないっぽいですよ。

性質の近い神仏は同一視される。

必ずしも神と仏とは限りません。

中国系や朝鮮系の神と日本の神とで、性質の似たようなものが同一視されるのは、日本では当たり前なんです。

習合し、同じものとして信仰するという日本人の精神を「鍾馗」という神様は垣間見せてくれます。

みなさんも京都を訪れた際はぜひ屋根の飾りに注目してみてください。

そして、島根の石見神楽もぜひ一度ご覧になってみてください。