久しぶりの宗教ネタです。
読んでくれる人いるかなあ。w
さて、以前の記事では、日本の歴史のなかでいかに神様と仏様が仲良くしていたかを解説してきました。
一般民衆レベルで言えば、神様と仏様の区別すら認識されていなかったことも言いましたね。
お寺や神社が好きな若い人に知ってほしい!神仏習合をわかりやすく解説!その1 お寺や神社が好きな若い人に知ってほしい!神仏習合をわかりやすく解説!その2 【本地垂迹説】でも、現代を生きる僕たちはどうでしょう?
お寺では手を合わせて拝みますが、神社に行くと「二礼拍手一礼」とかやってます。
お寺と神社の違いだけでなく、神様と仏様を全く別物として認識していますよね?
学校の授業でも「神道」と「仏教」という名前で区別されて教わります。
なんででしょう?
いつからでしょう?
今回は、私たち現代人が神と仏を区別して認識するようになった理由を解説していきます。
明治政府の方針
江戸時代が終わるまで、多くの日本人の認識では「神と仏はだいたい一緒」でした。
ただし、熱心な神道家や国学者は違います。
彼らは日本を神国と考え、幕末の尊皇攘夷思想の発端ともなっています。
江戸幕府が倒され、明治新政府が樹立されると、有力な国学者の影響で「国家神道」の思想が打ち出されます。
明治政府は何がしたかったのかというと、明治天皇を神様にしたかったわけですな。
神格化した天皇のもと強い国を作っていこうとしたわけです。
そのために神道を国家的な宗教として前面に押し出して行くわけですが、ここで問題が。
神と仏がごちゃ混ぜになっているではありませんか!
国学者や神道家がこれを容認するわけがありません。
明治政府は神仏を分離する命令を発します。
還俗(げんぞく)
以前の記事でも書いた通り、江戸以前では神社の中にお寺があり、そこには僧侶もいました。
彼らのことを「別当」とか「社僧」と言います。
神社の中にいたお坊さんは明治政府の命令で辞めさせられてしまいます。
これを還俗と言います。
神社から仏教の影が消える。
明治政府からの命令は別当や社僧の還俗に留まりません。
建物はもちろん、鰐口や梵鐘など、仏教に関連する一切の道具を神社から処分するよう命令します。
国学者や神道家にとっては、仏教は不純物か何かだったのでしょうか。w
とにかく徹底的に、神社から仏教の気配を消し去るように強制しました。
日本人は神と仏を区別するようになった
以上のような明治政府による一連の通達を「神仏判然令」と言います。
これによって日本人は神と仏を区別して認識されられるようになりました。
それが現代まで続いているですね。
神仏判然令が出されたのが1868年ですから、今年でちょうど150年。
大昔の話のように感じるかもしれませんが、よく考えてみてください。
仏教が伝来してから明治に入るまでおよそ1300年ですよ?
それに比べれば150年なんてついこの間のことです。
でも!
その1300年もの間、日本人が当たり前にしてきた習慣が、たったの150年で跡形もなくなってしまったんです。
なんかゾッとするなあ…。
今回はここまで。
神仏判然令によって、神と仏は引き離されてしまいました。
これで終わりではありません。
次に日本の宗教の記事を書くときには、明治時代初期にお寺を襲った悲劇的な出来事を追いかけてみようと思います。